学力低下論争と大学改革
13/03/14 17:20
大学改革が着々と進んでいる今日このごろである。最近読んだ本に、10年前の大学改革である「国立大学法人化」について、以下のようなことが書かれてあった。
90年代の終わり頃、通産行政の行き詰まりが取りざたされたことがあり、少壮官僚の大量退職が話題になった。こうなると俄然、なりふり構わぬ攻勢に出るのが「センミツ」といって千のうち三つ成功すればいいくらいの気持ちで仕事を積極的に仕掛ける通産官僚の本領である。
彼らが狙いをつけたのは国立大学だった。研究費提供などで国立大学の研究機能を通産省の影響下に置き、その研究成果を経済的に利用して新しい成長戦略を描くのが目的である。それには国立大学を文部省から引き離す法人化が不可欠であり、橋本政権の行革路線に乗じてさまざまな画策がなされた。
しかし、学習産業やスポーツ産業、文化産業とは違い国立大学は文部行政の本丸である。文部省も黙ってはいない。そこで揺さぶりをかけるために仕掛けられたのが「学力低下」騒動だった。『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)なるセンセーショナルな本を出版した学者たちを、通産省と関係の深い研究所に集めて研究費を渡し、文部省の政策は信用出来ないとのキャンペーンを張らせたのである。
その甲斐あってか、国立大学は国立大学法人という形で04年に法人化する。だが彼らの誤算は、国立大学の保守性だった。文部省に批判的な教官でさえ、通産省に対してはもっと激しい警戒感を持っていた。経済界に奉仕するような提案にうかうか乗るような気配はほとんど現れず、国立大学抱き込み計画は、あえなく頓挫する。
寺脇 研「文部科学省 『三流官庁』の知られざる素顔」(中公新書ラクレ476、中央公論新社 2013年11月10日発行)
著者はかつてミスター文部省とも呼ばれた方で、とりわけ、「ゆとり教育」等の旗振り役として知られている。引用のうち、「学力低下」論争云々のくだりは、前にここに書いた「理科離れ」の歴史のなかでも重要な出来事であったので、興味深い。
そのこととは別に、引用のなかで、通産省(現在の経産省)が国立大学法人化の際に果たした役割についての記述が興味深いと思った。というのも、法人化から10年後の現在進行中の大学改革が、産業競争力会議→教育再生実行会議→文科省・中教審→大学という構造のもとで進んでいて、その大本である産業競争力会議は、その名の通り、(正確な言い方ではないかもしれないが)「経産省の影響下」にあるそうなので。
そういえばと思い出したのだが、最近、いくつかのの地方国立大学で、特定の技術分野に特化した研究組織に重点的に人、金をつぎ込むということが行われているのを目にする。特定分野に人と金を集中するために、別の分野では整理も行われているのだろう。いまのところ、比較的小規模な国立大学で行われているだけのようだが、こういう動きはいずれ全国の国立大学にも波及するのだろうか、と気になっている。これは必ずしも日本に限った話ではなくて、先日ポルトガルの公立大学の副学長が来た時に、そこではグラフェン、脳科学などに集中していて、グラフェンだけで数百人規模の研究者を集めているという話を聞いた。京大ではdepartmentのうえにfacultyがあるという話をしたら、まだそんなことをしているのか、うちではfacultyは廃止して学長が直にdepartmentを動かせるようにしている、だから思い切った選択と集中ができるのだ、と説教された。
昨年あたりから、一部の新聞等で、某私立大学で学長が教員を採用しようとしたところ教授会の反対でできなかった等の例を挙げて、現在の大学では教授会の権限が強くて学長がリーダーシップを発揮できないという論調の記事をときどき見かけ、何かの「キャンペーン」が張られているのかなと思っていたら、昨年暮には、中教審大学分科会の審議まとめ「大学のガバナンス改革の推進について」が公表された。今春には、いよいよ、学長のガバナンスを強化するための法改正を含めた取組が始まるようである。
国立大学はどの点をどのように変えていくべきか。より根源的には、国立大学は社会の役に立つためにあるということの意味について、また、国立大学は何がどのように社会に役だっているのかについて、改めてよく考える貴重な機会であると思う。
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