化学という学問は、云うまでもなく、原子や分子およびその集合体の性質や変化を解明することを目的とし、特に、化学反応の機構を明らかにすることを非常に大きな課題としています。化学の研究は、その長い歴史の中で、原子・分子の概念を確立し、化学変化を支配する多くの法則を明らかにしてきましたが、研究の方法論の特徴は、多くの物質についての実験事実を集積、枚挙し、その中から法則性を導きだすという帰納的方法論が主流を占めてきました。しかし、今世紀のはじめに原子、分子の運動を記述する根本的な法則である量子力学が確立し、化学研究が大きな変化を被りました。このことは量子力学の創始者の一人であるディラックが1929年に書いた論文の書き出しにある次のような文章に象徴されています。
"The general theory of quantum mechanics is now almost complete, the imperfection that still remains being in connection with the exact fitting in the theory with relativity ideas. These give rise to difficulties only when high-speed particles are involved, and are therefore of no importance in the consideration of atomic and molecular structure and ordinary chemical reactions, in which it is, indeed, usually sufficiently accurate if one neglects relativity variation of mass with velocity and assumes only Coulomb forces between the various electrons and atomic nuclei. The underlying physical laws necessary for the mathematical theory of a large part of physics and the whole of chemistry are thus completely known, and the difficulty is only that the exact application of these laws leads to equations much too complicated to be soluble. It therefore becomes desirable that approximate practical methods of applying quantum mechanics should be developed, which can lead to an explanation of the main features of complex atomic systems without too much compuation."
ディラックがこの論文を書いた頃が量子化学という学問が始まった時期に当たりますが、それから70年近くの間に分子の量子論は大きな進歩を遂げました。ディラックは、分子の電子構造についてのシュレディンガー方程式が余りにも複雑で解くことができないため近似的な方法を開発するべきであるといっていますが、現在では、かなり精度よく解くことが可能となり、簡単な分子に対しては実験の精度を上回る結果が得られるようになっています。また、重い原子を取り扱う上で重要になるrelativityすなわち相対論の効果も精度よく取り入れることができるようになっています。理論化学のこのような進歩は、理論的方法自体の発展は当然ですが、この20年ほどのコンピューターの驚異的な進歩によるところが非常に大きいと言うことができます。ここ数年の間には、100個を超える原子を含む分子系の電子状態を求めることも可能になるだろうと言われています。
化学現象を理解するためには、分子の中の電子の振る舞いを知ることは非常に重要ですがそれだけてはありません。例えば、化学反応を考えますと、その過程は、反応に関与する分子系の電子的シュレディンガー方程式の固有値である断熱ポテンシャル面上での原子核系の運動としても捉えることができます。また、ほとんどの化学反応は溶液の中で起こりますが、これは溶媒分子も含めますと極めて多数の分子が関与する過程です。従いまして、理論化学の研究では、分子の電子状態理論だけてなく、ポテンシャル面上の原子核の運動を記述する量子動力学、多数の分子の運動を取り扱う分子統計力学の手法の開発も重要になってきます。近年、分子とその集合体の運動を取り扱う動力学理論に長足の進歩があり理論化学の可能性を大きく広げてきました。
理論化学研究室では、分子の電子状態の理論を基礎として、化学反応の機構とダイナミックスについての研究を行ってきました。この間、研究室でともに研究を行った多くの大学院生の努力と活躍のおかげで分子の電子状態理論、気相における反応ダイナミックス、溶液内反応のダイナミックスなどの分野で幾つかの重要な成果を上げることができました。以下、現在研究室で取り組んでいる研究の内容を簡単に紹介したいと思います。
分子動力学法などの計算機シミュレーションの方法は、溶液内での化学反応のダイナミックスを研究する有力な手段として発展してきました。当研究室では、電子状態理論を用いて分子動力学計算のための理論モデルの精密化に取り組んできました。溶液内での反応分子の電荷分布は、周りの溶媒分子の熱揺らぎにより変化を被ることが考えられます。私たちは、溶媒分子の揺らきに対する溶質分子の電荷分布の応答を記述するモデルを分子軌道理論に基づいて定式化し、そのモデルを用いた分子動力学計算により光化学反応の中間体ラジカルの拡散係数の異常性や振動緩和の新しい機構の解明に成功を収めてきました。また、電子移動反応などの溶液内反応のダイナミックスを記述するハミルトニアンを理論的に導き、その中に含まれるパラメーターを分子動力学計算から求める方法を確立しました。この方法は、ポルフィリンとキノン間の長距離電子移動反応の機構の解明に用いられました。
今後、溶液内反応に対して開発してきた理論的手法を更に発展させ、酵素反応などの生体内反応の機構の解明に取り組もうと考えています。