理論化学研究室 研究案内


理論化学研究室は、1990年、化学教室の14番目の研究室として新設されました。この研究室では、名前が示す通り、化学現象を理論的な方法を用いて明らかにすることを目的としています。

化学という学問は、云うまでもなく、原子や分子およびその集合体の性質や変化を解明することを目的とし、特に、化学反応の機構を明らかにすることを非常に大きな課題としています。化学の研究は、その長い歴史の中で、原子・分子の概念を確立し、化学変化を支配する多くの法則を明らかにしてきましたが、研究の方法論の特徴は、多くの物質についての実験事実を集積、枚挙し、その中から法則性を導きだすという帰納的方法論が主流を占めてきました。しかし、今世紀のはじめに原子、分子の運動を記述する根本的な法則である量子力学が確立し、化学研究が大きな変化を被りました。このことは量子力学の創始者の一人であるディラックが1929年に書いた論文の書き出しにある次のような文章に象徴されています。

"The general theory of quantum mechanics is now almost complete, the imperfection that still remains being in connection with the exact fitting in the theory with relativity ideas. These give rise to difficulties only when high-speed particles are involved, and are therefore of no importance in the consideration of atomic and molecular structure and ordinary chemical reactions, in which it is, indeed, usually sufficiently accurate if one neglects relativity variation of mass with velocity and assumes only Coulomb forces between the various electrons and atomic nuclei. The underlying physical laws necessary for the mathematical theory of a large part of physics and the whole of chemistry are thus completely known, and the difficulty is only that the exact application of these laws leads to equations much too complicated to be soluble. It therefore becomes desirable that approximate practical methods of applying quantum mechanics should be developed, which can lead to an explanation of the main features of complex atomic systems without too much compuation."

ディラックがこの論文を書いた頃が量子化学という学問が始まった時期に当たりますが、それから70年近くの間に分子の量子論は大きな進歩を遂げました。ディラックは、分子の電子構造についてのシュレディンガー方程式が余りにも複雑で解くことができないため近似的な方法を開発するべきであるといっていますが、現在では、かなり精度よく解くことが可能となり、簡単な分子に対しては実験の精度を上回る結果が得られるようになっています。また、重い原子を取り扱う上で重要になるrelativityすなわち相対論の効果も精度よく取り入れることができるようになっています。理論化学のこのような進歩は、理論的方法自体の発展は当然ですが、この20年ほどのコンピューターの驚異的な進歩によるところが非常に大きいと言うことができます。ここ数年の間には、100個を超える原子を含む分子系の電子状態を求めることも可能になるだろうと言われています。

化学現象を理解するためには、分子の中の電子の振る舞いを知ることは非常に重要ですがそれだけてはありません。例えば、化学反応を考えますと、その過程は、反応に関与する分子系の電子的シュレディンガー方程式の固有値である断熱ポテンシャル面上での原子核系の運動としても捉えることができます。また、ほとんどの化学反応は溶液の中で起こりますが、これは溶媒分子も含めますと極めて多数の分子が関与する過程です。従いまして、理論化学の研究では、分子の電子状態理論だけてなく、ポテンシャル面上の原子核の運動を記述する量子動力学、多数の分子の運動を取り扱う分子統計力学の手法の開発も重要になってきます。近年、分子とその集合体の運動を取り扱う動力学理論に長足の進歩があり理論化学の可能性を大きく広げてきました。

理論化学研究室では、分子の電子状態の理論を基礎として、化学反応の機構とダイナミックスについての研究を行ってきました。この間、研究室でともに研究を行った多くの大学院生の努力と活躍のおかげで分子の電子状態理論、気相における反応ダイナミックス、溶液内反応のダイナミックスなどの分野で幾つかの重要な成果を上げることができました。以下、現在研究室で取り組んでいる研究の内容を簡単に紹介したいと思います。


1 気相における化学反応ダイナミックス

気相における比較的簡単な分子の反応ダイナミックスの研究は、化学反応理論の最も基礎的な研究として位置づけられるとともに、燃焼過程や大気化学において重要な役割を果たしています。当研究室では、反応分子の電子状態はもとより原子核の運動も量子論に基づいて取り扱うことにより、反応のダイナミックスを第一原理から理解することを目指しています。化学反応には、遷移状態理論やRRKM理論のような統計的な理論が広範に用いられていますが、それらが適用できる条件は必ずしも明らかになっていません。私たちの研究は、例えば、単分子反応を共鳴性散乱として捉え、反応が起こるエネルギー領域での分子運動の量子状態を調べることにより反応ダイナミックスに新たな知見をもたらそうとするもので、化学反応ダイナミックスの理論の進展に基礎的な情報を与えるものと位置づけることができます。また、励起状態における化学反応には複数のポテンシャル面間の遷移を伴うものも多くありますが、このような反応を理解するため、非断熱遷移を引き起こすスピン軌道相互作用や振電相互作用の行列要素の計算法を開発し、量子動力学の方法と組み合わせることにより速度過程の第一原理からの理論的取り扱いを行ってきました。従来の近似的な理論では、説明することができなかった多原子分子の無輻射遷移速度の理論計算などに適用し、成功を収めています。現在では、分子とレーザー場との相互作用により引き起こされる反応のダイナミックスの研究を行っています。


2 溶液内における化学反応のダイナミックス

溶液内における化学反応は事実上無限個の溶媒分子が関与する複雑な過程で、反応のポテンシャル面を求めることも極めて難しい課題であると云われてきました。当研究室では、分子の電子状態理論と分子性液体の統計力学理論である積分方程式理論を組み合わせたRISM-SCF法を提案し、溶液内反応の自由エネルギー面の理論計算を行ってきました。この方法は、従来の溶媒を誘電連続体と見なす方法に比べて、溶媒分子の微視的な性質を反映させることができるモデルとして注目を浴びています。これまでは、水溶液中の反応を取り上げてきましたが、最近、非プロトン性の有機溶媒にもこの方法を拡張し、経験的な溶媒パラメーターの理論的説明を行いました。現在では、溶媒の熱揺らぎの効果や反応速度の理論計算を行っています。

分子動力学法などの計算機シミュレーションの方法は、溶液内での化学反応のダイナミックスを研究する有力な手段として発展してきました。当研究室では、電子状態理論を用いて分子動力学計算のための理論モデルの精密化に取り組んできました。溶液内での反応分子の電荷分布は、周りの溶媒分子の熱揺らぎにより変化を被ることが考えられます。私たちは、溶媒分子の揺らきに対する溶質分子の電荷分布の応答を記述するモデルを分子軌道理論に基づいて定式化し、そのモデルを用いた分子動力学計算により光化学反応の中間体ラジカルの拡散係数の異常性や振動緩和の新しい機構の解明に成功を収めてきました。また、電子移動反応などの溶液内反応のダイナミックスを記述するハミルトニアンを理論的に導き、その中に含まれるパラメーターを分子動力学計算から求める方法を確立しました。この方法は、ポルフィリンとキノン間の長距離電子移動反応の機構の解明に用いられました。

今後、溶液内反応に対して開発してきた理論的手法を更に発展させ、酵素反応などの生体内反応の機構の解明に取り組もうと考えています。


3 不均質大気化学における理論化学

近年、大気化学においてエアロゾルと呼ばれる液体・固体の微粒子が、化学的およびエネルギー収支の両面において大気環境に大きな役割を果たすことが知られるようになり、現在非常にホットな分野となっています。これらの問題は、物理化学としても、従来の気相化学と凝集相化学の両面にまたがる新しい分野で、理論化学的にも重要で面白い問題が数多く残されています。本研究室では、電子状態計算や分子シミュレーションなどの手法を用いて、(i)エアロゾル表面構造の解析、(ii)気液界面での物質移動の理論、および (iii)不均質化学反応機構の解明に取り組んでいます。
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