. イオン液体中でのプロトン移動ダイナミクス

 

 電荷移動反応やプロトン移動反応などの高速反応においては、溶質分子の電子状態の変化に伴う溶媒分子の溶質分子周りの再配置のダイナミクス、いわゆる溶媒和ダイナミクスが反応速度を決定する一因となることはよく知られている。イオン液体の溶媒和ダイナミクスに関しては多くの研究があり、通常の液体とはことなる数々の特徴が見出されている。

通常の液体では溶質溶媒分子間の双極子相互作用がエネルギーの安定化に重要な寄与をしており、溶媒分子の回転ダイナミクスが溶媒和ダイナミクスを支配する。一方でイオン液体では、電荷・双極子の相互作用が重要となるのでイオンの並進運動が安定化エネルギーに重要となる。緩和時間を支配するメカニズムが違うために、イオン液体の溶媒和ダイナミクスはサブピコ秒からナノ秒という非常に広範な時間領域にわたるものとなる。このような溶媒和ダイナミクスの違いが、イオン液体中の電荷移動反応やプロトン移動反応にどのような違いをもたらすかは非常に興味深い問題である。我々は電子励起状態における分子内プロトン移動過程を題材としてこの問題にアプローチをすすめている。

対象としている反応系は図にしめすDEAHFの励起状態分子内プロトン移動系である。通常の液体中でこの分子は励起状態でNormal体からTautomer体へとプロトン移動(ESIPT, Excited State Intramolecular Proton Transfer)を起こすことが知られている。またNormal体の励起状態は極性が大きく、一方Tautomer体の励起状態はNormal体と同等の極性を示す。このため、励起状態でののプロトン移動は電荷移動がカップルしたものとなり、溶媒極性によって反応速度が異なる。通常溶媒の研究結果(P. T. Chou et al. J. Phys. Chem. A, 109, 3777 (2005)から、プロトン移動は二段階で生じることがわかっている。光励起直後のFramck-Condon状態からのバリアレスの高速のプロトン移動過程と、Normal体が溶媒和を受けることによって反応障壁が生じたのちの比較的おそい数十ピコ秒程度のプロトン移動過程が存在する。通常の溶液とは異なる溶媒和ダイナミクスを示すイオン液体中で、これらの諸過程がどのように変化するのかは非常に興味深い。

 図に測定に用いた装置の概略を示す。Optical Kerr gateを利用した高速の時間分解蛍光測定システムによりサブピコ秒の時間分解で蛍光ダイナミクスを観測することが可能である。

図に示すのが時間分解蛍光スペクトルの一例である。Normal体の励起状態に由来する蛍光スペクトルが高エネルギー領域に観測され、時間とともにそのピーク位置が溶媒和ダイナミクスによりシフトしていく様子が観測される。同時に、低エネルギー側にTautomer体の励起状態に由来する蛍光スペクトルが時間とともに立ち上がり、その強度を増し、一方Normal体の蛍光強度が減少する。両者の蛍光スペクトルを解析し、その強度の時間変化をしらべることにより、PTの速度を決定することが可能であり、種々のイオン液体中でのESIPTの速度のイオン液体依存性を検討した。

表に種々のイオン液体中でのTautomerの立ち上がりを3成分の指数関数(最初の成分は装置応答関数程度の超高速過程を仮定)で最適化した結果を示す。通常の液体と同様に数ピコ以内の高速のPT過程と、2030ピコ秒程度の遅いPT過程があることが分かった。さらに遅いPTの割合が、イオン液体のイオン濃度によって評価されるようなイオン液体の極性によって変化することが明らかとなった。また、PTの速度と平均の溶媒和時間<tS>と比較すると、PT速度は溶媒和時間に比較して非常に速い。すなわち、今回のESIPTに関与するのは溶媒和ダイナミクスの初期過程であり、基本的にはPTの反応座標と溶媒和座標はあまり強くカップルしていないということが明らかとなった。

 この反応系に関して非常に興味深いもう一つの点は、Normal体とTautomer体の定常蛍光の強度比が励起波長に依存して変化することである。現在そのメカニズムを明らかにするため蛍光ダイナミクスの励起波長の検討を進めている。

 

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