2. 振動緩和過程

溶液中で励起分子の振動緩和がどのようなメカニズムで起こっているかを理解することは、溶液物理化学の中心課題のひとつである。この振動緩和過程に関連して以下の観点から研究を進めている。

(1)時間分解蛍光測定による励起状態での振動緩和測定

(2)TG法を用いたエネルギー散逸スキームの解明

以下各々について簡単に紹介する。

 

(1)時間分解蛍光測定による励起状態での振動緩和測定

液相中での振動緩和を理解するモデルとして、古くから提唱されているIBCモデル(Isolated Binary Collision Model)は、気相領域における振動緩和の理屈を凝縮相に適用したものであり、振動緩和の速度は、衝突頻度Zと衝突あたりに失うエネルギーの割合ΔEに比例するとするものである。このIBCモデルの妥当性に関して種々の実験的、理論的研究が行われてきたが、凝縮相で衝突頻度の評価の困難さのため、未だ最終的な決着はついていない状況である。我々は同一分子の電子基底状態と励起状態での振動エネルギー緩和速度を比較することによりIBCモデルの妥当性の検証をおこなってきた。

アズレンはS2状態から比較的長寿命(ca. 1.6 ns)の蛍光をだす分子であり、その蛍光の線形が過剰エネルギーに依存して変化することが知られている。したがって、蛍光スペクトルの線形を光励起後から時間分解で測定し、その線形から過剰エネルギーを評価して振動エネルギー緩和速度を調べることが可能となる。図はエタン中で,283nmで励起後の蛍光スペクトルの時間変化を示したものである。時間の経過にしたがって蛍光スペクトルに構造がはっきりとあらわれてくるが、この変化はちょうど過剰エネルギーの減衰と対応しており、ここからエネルギー緩和速度を求めることができる。

このようにして求めたエタン中におけるS2状態での振動エネルギー緩和速度と、文献の基底状態の振動エネルギー緩和速度とを比較すると、S2状態の振動緩和速度の密度変化と基底状態の振動緩和速度の密度依存性は非常に類似していることがわかった。ただし、おなじ溶媒密度で比較すると励起状態の緩和速度のほうが1.5倍程度速いことがわかる。二酸化炭素およびキセノン中でも同様の傾向が得られた。この結果は、振動緩和速度にたいするIBCモデルとは矛盾しない。すなわち、緩和速度の密度変化は衝突頻度の密度依存性できまり、基底状態とS2状態での緩和速度の差は衝突あたりのエネルギー失活の効率を反映していると考えられる。

 説明: 説明: SCFVER.png

我々は同様の測定を、水素結合性の溶媒である超臨界アルコールや超臨界水中で行うことを試みている。一般に水素結合性の溶媒では振動緩和速度が速いので、高速で時間分解蛍光測定が可能なシステムをくむ必要がある。われわれのグループでは、光カーゲート法を利用した時間分解蛍光測定システムを構築し(左図)、超臨界メタノール中でのペリレン分子の時間分解蛍光スペクトル(右図)を測定することに成功した。

説明: 説明: 図9.png

 

メタノール中での蛍光スペクトルの初期ダイナミクスから評価した振動緩和速度の溶媒密度依存性を下図に示す。図に示されるように密度をかえることによって振動緩和速度は1ケタ以上変化する。図中の実線はNMRで見積もった溶媒分子間の水素結合の強さである。速度定数の誤差が大きいために現在のところそれほど正確なことは言えないが、振動緩和速度と溶媒分子間の水素結合の尺度が比較的よい相関を示しており、ペリレンのπ電子系とメタノールの水素結合が振動緩和に関連している可能性を示唆するものである。

説明: 説明: Kver-HB

 

(2)TG法を用いたエネルギー散逸過程の解明

一般的な振動緩和の議論に従えば、振動緩和過程はエネルギーを受け取る側の分子がどのような運動エネルギーとして受け取るかによって三つの過程に分類される。すなわち、V-VV-R、およびV-T過程である。ここでVRTはそれぞれ振動(Vibration)、回転(Rotation)および並進(Translation)を示す。古典的なフェルミの黄金律によれば、溶質の振動モードへの溶媒の摩擦力の相関関数の周波数成分が共鳴した時に振動エネルギー緩和が起こる。溶媒の並進・回転運動による寄与は主に低周波領域に存在するため、溶質分子の低振動モードが主なエネルギー移動の経路となる。また、V-Vエネルギー移動は溶質溶媒分子間に共鳴する振動モードが存在するときに効率がよくなる。

実験的に、溶媒のどのようなモードが共鳴して振動エネルギー緩和が生じているかを明らかにすることが可能であれば、理論と比較する意味でも非常に興味深い結果を与える。これまで、凝縮相中での振動緩和過程を観測するために、過渡吸収測定におけるホットバンドの観測、時間分解蛍光スペクトルのバンド形状の観測、時間分解共鳴ラマン測定によるアンチストークスバンドの観測、赤外領域におけるポンプ・プローブ観測、など様々な高度な分光学的手法が適用されてきた。しかしながらその実験の多くは、振動余剰エネルギーをもつ溶質分子の状態を観測するもので、エネルギーを受け取る溶媒の状態を観測する研究は非常に限られていた。これは溶質分子と相互作用をおこなう溶媒分子の数は限られており、そのほかの大多数の溶媒分子に隠されてしまって、選択的にその状態を観測することが困難なことに起因する。

ここで紹介するのは、溶質の振動緩和に伴う溶媒の状態の変化、特にその並進エネルギーを観測できる過渡回折格子法を用いて、振動エネルギー緩和過程の評価を行った研究成果である。この実験手法では溶質分子のエネルギー散逸による溶媒の温度上昇速度、すなわち並進運動エネルギーの変化を測定することが可能である。図に過渡回折格子法の原理図を示す。サンプル溶液にある一定の角度で二つのレーザーパルスを同時刻に照射する。すると光の干渉効果により過渡的な光強度の回折格子が生じる。サンプル中の溶質分子がこの波長の光を吸収すると、励起分子が光の干渉縞に沿って存在することになる。仮に光励起された分子がその光エネルギーをすべて熱エネルギーとして放出すると、溶媒がこの熱エネルギーによって加熱され、熱膨張が生じることになる。この熱膨張が光励起されたところでのみ生じるために、干渉縞に沿って溶媒の密度の粗密が周期的に生じることになる。すなわち音波の定在波が発生する。このような密度の粗密は溶媒の屈折率の変調をもたらし、これが回折格子の役割を果たすことになる。したがって、Braggの回折条件を満足する角度で別のレーザーパルスを入射すると屈折率の変調強度に応じて回折が生じる。この回折光の強度をモニターすることで、光励起にともなう過渡的なダイナミクスを捉えることが可能となる。

説明: 説明: 図1

今、溶液中の溶質分子が光を吸収し、そのエネルギーをすべて熱として放出するケースを考える。放出された熱エネルギーがある時定数ttempで溶媒の温度を上昇させるのに使われたと仮定する。このとき図のような音響信号が観測される。図は、交差角度30°で532 nmのポンプ光で励起した時の信号のモデルである。溶媒の温度上昇速度(ttemp-1)が遅くなるに従って、音響信号の立ち上がりが遅れ信号全体が右にシフトしたようになる。実験ではこの音響信号のずれを評価することでttempを決定する。音波の周期に比較して、ttempは非常に小さいが、音響信号を2から3周期にわたって精度よく信号を測定することで、数ピコ秒の精度でttempを決定することが可能である。

説明: 説明: Tgsignal

ここではアズレン分子の基底状態における振動緩和過程を題材に、TG音響信号で観測される温度上昇速度からどのような情報が引き出せるかを先のアズレン分子の場合を例にとって解説する。アズレン分子のS1S0吸収バンドを光励起すると高速の内部転換過程(ca. < 2 ps)の後に、振動励起された基底状態のアズレン分子が生成する。この基底状態におけるホットバンドの減衰を測定するのが、従来のアズレン分子の振動緩和測定の主な手法であり以後、過渡吸収で求められた緩和時間をtVERと呼ぶことにする。いまアズレン分子の振動余剰エネルギー(Q)が溶質溶媒の相互作用によって緩和していく際に、V-V, V-R, V-T過程のそれぞれにQV0, QR0およびQT0のエネルギーが分配されると仮定する。この分配の仕方は溶質・溶媒のエネルギー緩和のメカニズムの本質にかかわる部分であり、必ずしも平衡状態における溶媒分子のエネルギー分布に従う必要はない。その後、溶媒分子間におけるエネルギー移動の結果、最終的なエネルギー分配(QV, QRおよびQT)に落ち着くことになる。この最終的なエネルギー分配は、溶媒分子の各々のモードに割り当てられる比熱によって決定される。TG音響信号では溶媒の並進運動エネルギーの増大に応じて信号の立ち上がり時定数ttempが決定される。回転と並進の間のエネルギー移動は速いと考えられるので、以下、振動と並進の競合を考える。仮にQV0 > QV、すなわち溶質溶媒分子間のV-Vエネルギー移動が効率的に起こるとすると、溶媒の並進エネルギーは二段階で上昇することになる。すなわち、溶質から直接溶媒の並進エネルギーへと移動する部分(QT0)、そして一旦溶媒の振動余剰エネルギー(QVE = QV0 QV)として蓄えられた後に、溶媒分子間のV-Tエネルギー移動で緩和する部分である。TGで観測される時定数は各々の過程で放出される熱量の重みがかかるので、溶媒のV-Tエネルギー移動の時定数をtSとすると、近似的に以下の関係式が成立する8

      

すなわちTG測定で得られる時定数は、溶質・溶媒分子間のV-Vエネルギー移動と、溶媒の振動緩和時間の効果によってTAで観測される緩和時間よりも大きくなる。

説明: 説明: moderl

 実際の超臨界流体中でアズレンの振動緩和過程をTG法で測定した結果を紹介しよう。図は超臨界キセノンとエタン中で得られた典型的なTG音響信号であり、解析によってえられた温度上昇時間をSchwarzerのグループが決定した溶質分子の振動エネルギー緩和速度12(tVER-1)と比較した結果である。単原子分子であるキセノン中ではtVER-1ttemp-1は誤差の範囲内でほぼ一致する。これは単原子分子であるキセノンでは溶質の振動余剰エネルギーはすべて溶媒の並進運動エネルギーへと変換されるため両者は原理的に一致するはずであり、実験結果はこの理論的な予測を検証したことになる。一方で、多原子分子であるエタン中では両者には大きなずれが確認された。すなわち溶媒の温度上昇速度は溶質の振動緩和時間よりもどの密度領域でも遅い。この傾向(tVER-1ttemp-1)はエタンに限らず、測定をおこなった一連の有機溶媒(アセトニトリルやシクロヘキサン、メタノールなど)中で一般的に観測された。これは分子性流体中でのアズレンの振動緩和ではV-Vエネルギー移動が少なからず寄与していることを示している。残念ながら超臨界エタン分子間の振動緩和速度はこれまで評価されていないので、実際にどれくらいの割合でV-Vエネルギー移動が寄与しているかは評価できない。仮に気相領域で測定されたエタンの振動緩和速度を、密度に比例するものとして超臨界領域へ外挿して評価すると、換算密度1.6QV0/Q はおよそ0.57と見積もられ、エタン中ではV-Vエネルギー移動が重要な役割を果たしていると考えられる。

説明: 説明: TGsignal説明: 説明: densitydep

我々はアズレンに限らず、pNAN,N-dimethyl-p-nitroaniline などの極性や水素結合性を持った溶質分子、さらには溶媒和電子などの反応中間体に対しても同様の実験手法を適用し、エネルギー散逸過程に対する詳細な検討を行っている。また、この手法を分子内振動エネルギー再分配と分子間のエネルギー散逸が拮抗するような系に用いることにより、そのエネルギーダイナミクスの詳細を明らかにする研究もおこなった。

                  

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