"新たな理論的手法を開発し、未知の現象を開拓する"、これが私たちの目指す研究スタイルです。
 電子状態を表す波動関数空間の次元は、電子数に対して指数関数的に増大します。ところが、安定構造にある有機分子など多くの分子では波動関数が平易な"構造"を持つため、良く設計された小さな空間でシュレディンガー方程式を解く完成度の高い理論体系(単参照理論)がすでに確立されています。しかし、そこから一歩でも外に出ると既存理論では解けているか分からなかったり、明らかに破綻するような領域(多参照問題)が広がっています。
 私たちは、そのような化学電子論の未踏領域を切り拓くための新たな波動関数理論の開発と共に、多参照問題の代表例である、多重結合の開裂、電子励起状態、遷移金属錯体などに対する応用研究を進めています。

複雑な電子状態に対する波動関数理論の開発

DMRG "多参照電子状態"とよばれる分子中の電子が互いに強く相関する、理論的な取り扱いが未だに難しい電子系です。現在の多参照理論の問題点は、波動関数の"構造"がよくわかっていないため次元の縮約が難しく、計算量が価電子の数に対して指数関数的に増大する点です。そのため、ここ数十年の計算機の長足の進歩にも関わらず解ける問題に全く進歩のない化学電子論の未解決問題として残されています。この多参照問題に対して、"テンソルネットワーク"とよばれる形式の波動関数を用いた新たな多参照理論の開発を行っています。また開発した手法を用いて、多参照問題が顕著である遷移金属錯体、π共役系分子(特に光励起)、分子スピン系などの応用研究を行っています。

遷移金属錯体

OEC 遷移金属錯体の金属イオンと配位子間の化学結合は"配位結合"として形式的には理解されていますが、実際に可能な限り正確に波動関数を計算すると、その構造の複雑さに驚かされます。"酸化数"の概念すら曖昧になり、またFeやMnイオンなど3d遷移金属では基底状態でも4d軌道が部分的に占有されてしまうなど、現代の化学電子論を支える"分子軌道"も描像の一つに過ぎないことを思い知らされます。まだ確立された手法はなく、小さな分子を除いては理論家も手探りの状態にあります。翻って、その複雑さは触媒作用や光機能など遷移金属錯体の面白さの源であると考え、最先端の理論を投入し解析をすすめています。

励起状態

SF 太陽光やレーザー照射により分子は高い電子エネルギーを持った固有状態(励起状態)に遷移します。励起状態は基底状態に比べ遥かに複雑な電子構造を持つため、理論計算を行うことなく光反応を点と線で描かれた手書きの"構造式"から熱反応のように予測することは困難です。一方、理論計算でも全ての状態をバイアスなく記述する波動関数の空間を用意することはほぼ不可能なため、研究対象ごとに注意深く結果を吟味しながら知見を総動員し適切に空間を設計してやるといった、試行錯誤の解析が必要です。面倒でスッキリと解かしてくれないのは、限られたエネルギー幅での微妙なさじ加減で実現する"化学現象"の本質かもしれません。

分子スピン系

Co4 電子を考えるうえで"スピン"は不可欠な自由度です。多くの分子では、空間の全て点でスピンの偏りのない一重項と呼ばれる状態が最も安定であるため、意識されることが多くはない自由度ですが、分子にオン/オフや量子演算など量子的な機能を持たせるために非常に重要かつ制御すべき自由度です。本グループでは特に相対論効果による"スピン軌道相互作用"を利用した分子の機能に注目し、単分子磁石やスピン偏極、三重項エネルギーの有効利用に向けた分子設計を目指しています。角運動量の制御について電子レベルの理解から一段上の分子構造に還元できるよな"言葉"を発見するのが目標です。

量子コンピュータのためのアルゴリズム開発

VQE 量子化学計算は、量子コンピュータの実用化により最も早期にそして大きく影響を受ける分野の一つです。もちろん、実用化へのロードマップが確かではない状況でどのような理論を作るべきかは、色々と考えるべきことがあり日々悩んでいます。一方、古典計算機では意味がないとされた手法が許されるなど、量子化学の理論開発にとっては考える余地が生まれたことで本質的な議論が活性化している状況は歓迎すべきことと捉えています。遊び心を忘れずに、頭を柔らかく量子アルゴリズムを作り出すことで、化学電子論に新たな局面が開かれることを期待しています。